インド運転手・勤続30年
今週火曜日は、ある運転手さんの定年退職の日でした。勤続30年です。名前をサティッシュさんと言います。20年以上働いている我が家の運転手さんの計らいで、サティッシュさん最後の日の運転を、私に当たるようにしてくれました。何故なら初駐在の時、家庭車の運転手さんだったサティッシュさんに、私はお世話になり、我が家の運転手さんがその事情をよく知っていたからです。
二十数年ぶりの再会
サティッシュさんは、私が今回の帯同で2度目の初入国をした翌日に、コロナ禍であったのに、挨拶に来てくれました。彼は私があの頃、初めにどこのエリアに住んで、次に何処のエリアに引っ越したか、それがどんな家だったかをよく覚えていました。サティッシュさんは、私から自作の日本のお菓子をもらったとも言いました。当時の、あの恐ろしく暑い台所で作るお菓子なんて、おそらくボランティア資金集めのバザーの為に焼いた、どら焼きではないかと思うのです。当時は自らをベジタリアンと言うお手伝いさんも、ノンベジの日本人の残り物を喜んだので、なんでも大量に作って、それを誰が食べるのかは尋ねず、お手伝いさんたちにあげていたのです。こうした余り物は、お手伝いさん同士が喧嘩する(←これはカオス😅)ほど重宝されました。しかしそれを運転手さんにも配っていたとは。すっかり忘れていました。
運転手リストラ
私が彼について、覚えている事といったら、「サティッシュさんリストラ騒ぎ」です。これは、私のインド思い出話トップ10に入ります。
時代は1998年。この年、インドが核実験をした事により、日印関係がギクシャクしました。もちろん駐在員は、ガチでその影響を受け、本帰国者が増えました。すると次に来るのはインド会社内の人員削減。家庭車ドライバーなんて一番簡単にリストラされてしまいます。
ある日の事です。夫が出張に出て、のほほーんとお一人時間を過ごしていたところへ、チリリンと呼び鈴が。ドアを開けると、そこにはサティッシュさんがいました。出かける予定はないし、運転のリクエストをしていないのに変だなと思っていたら、サティッシュさんが震える声で、自分がリストラされる、
「マダム、ヘルプミー。」
と、私に話しました。
インド・トラブル
“トラブルは、夫の出張中に起きる”
インド帯同アルアルですが、ドライバーリストラ案件。これほど私に解決余地のないトラブルはありません。まずは私は社員でないから何の力もない。そして、当時の夫は一番下っ端。
サティッシュさんだけではありません。何故かわからないけど、インド社会で一番影響力のない外人の女の私に、インド人は困りごとを持ちかけてくるのです。
「お姉さんの夫が死んだ、金くれマダム」
「子どもが学校に行けない、金くれマダム」
「テレビを母親が持っていってしまった、金くれマダム」
これらをですね、「どんなに凄い演技指導がついているんじゃ!?」と感じるほど、彼らは情緒たっぷり、悲愴感たっぷりに語る、いや訴えかけてくるのです。
なによりも、夫に言わず、女の私に言うところが、ヒジョーにムカつき、
「インド式男尊女卑だ、チクショーっ!」
と、初めはいちいち腹を立てていましたが、あまりにも多いので結局慣れ、全て「それは夫に話してチョーダイ。」で済ませるようにしてしまいました。
さて、サティッシュさんです。スマホはなく、電話線から回線が盗まれる時代です。夫は出張中なので「それは夫に話して」は通用しません。普段は無口なサティッシュさんは、それから毎日、震える手で、自分の経歴が書かれた紙を私にみせ、震える声でいかに自分が無事故で安全に運転してきたかを私に話しに来ました。私は何の力もないけど、こうした訴えを異論を唱えず聞き続けるのも務めなのか(残念ながらそれしかできない)と、やってきたサティッシュさんの繰り返される話をきき、既にしわくちゃになっている経歴書を、これは大切、大事に持っていてねと渡し、夫には経過を電話で話しました。
後日、運命がどう転んだのか、その後次々と新たに三人の奥さまの帯同が決まり、何故か三人とも、インドよりハードシップの高い国を経験済みで、この辺の事情を心得ていらっしゃり、中には「ウチで彼を雇ってもいいわよ」と仰る気風の良い奥さまも登場(彼女は二十代前半で早々と家庭に入った、主婦の王道を行く方でしたが、インド入国始めから英語以外にウルドゥ語を使いこなし、後にヒンディー語も話すようになり、サティッシュさんに「厳しいけど、ハートがグッドなマダム」として記憶される)。そうこうしているうちに、サティッシュさんのリストラは無事回避されました。
定年の日
インド核実験がきっかけになり、それは日印関係だけでなく、駐在員にも、その家族にも、そしてデリーの素朴な家庭の大黒柱リストラ危機にまで影響を及ぼしましたが、それを乗り越え、こうして、無事に定年を迎えることになったサティッシュさん。そしてその最後の日を一緒に過ごせたなんて、あの時を思えば思うほど、感慨で胸がはち切れそうでした。
この日、車内で思い出話しに花が咲きました。サティッシュさんは、家庭車のドライバーさんなので、30年、日本の奥さんと子どもたちを見てきたわけです。彼は本当に色んな奥さまのことをよく覚えていました。リストラ騒ぎだけでなく理不尽なことも沢山あったでしょう。
スマホがない時代、運転手さんはひたすら待つのも仕事でした。当時はホテルか自宅での宴席が常でしたが、ホテルとなると、地下の駐車場で運転手さんは待つのです。今でも、昔ながらの高級ホテルの入り口の端に、台が置かれているのを見ることができます。そこにはマイクがあり、その音声が駐車場に繋がっています。例えば、私が係の人に運転手さんの名前を告げると、そのマイクに向かって
「サティーッシュ、サティーッシュ、ジャルディ、ジャルディ。」
と言います。すると、駐車場でそれを聞いたサティッシュさんは、数分後にホテル玄関に車を付けるのです。 我が家の運転手さんは、あのスマホのなかった頃を「ハード・ワークな時代」と言い、今もホテルの駐車場は使いたがらないように私は感じます。当時のあの駐車場の様子は、映画「ホワイト・タイガー」でも描かれいますし、原作もインド・ドライバーの現実をよく綴っています。
私が二十数年ぶりにインドに来たら、当時の運転手さんは三人亡くなっていました。おそらく50、60代で逝ってしまったのだと思います。みな、走り屋で、力持ちの明るくて優しいドライバーさんでした。その中には、渋滞中であれ、何が何でも出張者やお客さんの飛行時間に間に合わせる、スーパー飛ばし屋ドライバーさんもいました。
サティッシュさんは飛ばし屋ではないし、決して器用なドライバーさんではありません。しかし実直で真面目。そして、恰幅のよかった彼らと比べ、サティッシュさんは、スレンダーで健康的に見えます。その事を彼に言うと、彼は目的地で奥様方を待っている間、歩くようにしていたと、答えました。そして日々のお食事は、ワイフの作ったホームのフード。健康のためには、外食はしない事だと微笑みました。
私の運転の翌日は、仲間たちとさよならパーティ。その次の日からは、孫と一緒に生活、そしてそれが、「ベ~リ~ハッピー」だと、サティッシュさんは笑い、写真を見せてくれました。そこには、あの日、ブルブル震える声と手で訴えた彼が守りたかったもの、その未来図がありました。
サティッシュさん、
勤続30年、お疲れさまでした。
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今週火曜日は、ある運転手さんの定年退職の日でした。勤続30年です。名前をサティッシュさんと言います。20年以上働いている我が家の運転手さんの計らいで、サティッシュさん最後の日の運転を、私に当たるようにしてくれました。何故なら初駐在の時、家庭車の運転手さんだったサティッシュさんに、私はお世話になり、我が家の運転手さんがその事情をよく知っていたからです。
二十数年ぶりの再会
サティッシュさんは、私が今回の帯同で2度目の初入国をした翌日に、コロナ禍であったのに、挨拶に来てくれました。彼は私があの頃、初めにどこのエリアに住んで、次に何処のエリアに引っ越したか、それがどんな家だったかをよく覚えていました。サティッシュさんは、私から自作の日本のお菓子をもらったとも言いました。当時の、あの恐ろしく暑い台所で作るお菓子なんて、おそらくボランティア資金集めのバザーの為に焼いた、どら焼きではないかと思うのです。当時は自らをベジタリアンと言うお手伝いさんも、ノンベジの日本人の残り物を喜んだので、なんでも大量に作って、それを誰が食べるのかは尋ねず、お手伝いさんたちにあげていたのです。こうした余り物は、お手伝いさん同士が喧嘩する(←これはカオス😅)ほど重宝されました。しかしそれを運転手さんにも配っていたとは。すっかり忘れていました。
運転手リストラ
私が彼について、覚えている事といったら、「サティッシュさんリストラ騒ぎ」です。これは、私のインド思い出話トップ10に入ります。
時代は1998年。この年、インドが核実験をした事により、日印関係がギクシャクしました。もちろん駐在員は、ガチでその影響を受け、本帰国者が増えました。すると次に来るのはインド会社内の人員削減。家庭車ドライバーなんて一番簡単にリストラされてしまいます。
ある日の事です。夫が出張に出て、のほほーんとお一人時間を過ごしていたところへ、チリリンと呼び鈴が。ドアを開けると、そこにはサティッシュさんがいました。出かける予定はないし、運転のリクエストをしていないのに変だなと思っていたら、サティッシュさんが震える声で、自分がリストラされる、
「マダム、ヘルプミー。」
と、私に話しました。
インド・トラブル
“トラブルは、夫の出張中に起きる”
インド帯同アルアルですが、ドライバーリストラ案件。これほど私に解決余地のないトラブルはありません。まずは私は社員でないから何の力もない。そして、当時の夫は一番下っ端。
サティッシュさんだけではありません。何故かわからないけど、インド社会で一番影響力のない外人の女の私に、インド人は困りごとを持ちかけてくるのです。
「お姉さんの夫が死んだ、金くれマダム」
「子どもが学校に行けない、金くれマダム」
「テレビを母親が持っていってしまった、金くれマダム」
これらをですね、「どんなに凄い演技指導がついているんじゃ!?」と感じるほど、彼らは情緒たっぷり、悲愴感たっぷりに語る、いや訴えかけてくるのです。
なによりも、夫に言わず、女の私に言うところが、ヒジョーにムカつき、
「インド式男尊女卑だ、チクショーっ!」
と、初めはいちいち腹を立てていましたが、あまりにも多いので結局慣れ、全て「それは夫に話してチョーダイ。」で済ませるようにしてしまいました。
さて、サティッシュさんです。スマホはなく、電話線から回線が盗まれる時代です。夫は出張中なので「それは夫に話して」は通用しません。普段は無口なサティッシュさんは、それから毎日、震える手で、自分の経歴が書かれた紙を私にみせ、震える声でいかに自分が無事故で安全に運転してきたかを私に話しに来ました。私は何の力もないけど、こうした訴えを異論を唱えず聞き続けるのも務めなのか(残念ながらそれしかできない)と、やってきたサティッシュさんの繰り返される話をきき、既にしわくちゃになっている経歴書を、これは大切、大事に持っていてねと渡し、夫には経過を電話で話しました。
後日、運命がどう転んだのか、その後次々と新たに三人の奥さまの帯同が決まり、何故か三人とも、インドよりハードシップの高い国を経験済みで、この辺の事情を心得ていらっしゃり、中には「ウチで彼を雇ってもいいわよ」と仰る気風の良い奥さまも登場(彼女は二十代前半で早々と家庭に入った、主婦の王道を行く方でしたが、インド入国始めから英語以外にウルドゥ語を使いこなし、後にヒンディー語も話すようになり、サティッシュさんに「厳しいけど、ハートがグッドなマダム」として記憶される)。そうこうしているうちに、サティッシュさんのリストラは無事回避されました。
定年の日
インド核実験がきっかけになり、それは日印関係だけでなく、駐在員にも、その家族にも、そしてデリーの素朴な家庭の大黒柱リストラ危機にまで影響を及ぼしましたが、それを乗り越え、こうして、無事に定年を迎えることになったサティッシュさん。そしてその最後の日を一緒に過ごせたなんて、あの時を思えば思うほど、感慨で胸がはち切れそうでした。
この日、車内で思い出話しに花が咲きました。サティッシュさんは、家庭車のドライバーさんなので、30年、日本の奥さんと子どもたちを見てきたわけです。彼は本当に色んな奥さまのことをよく覚えていました。リストラ騒ぎだけでなく理不尽なことも沢山あったでしょう。
スマホがない時代、運転手さんはひたすら待つのも仕事でした。当時はホテルか自宅での宴席が常でしたが、ホテルとなると、地下の駐車場で運転手さんは待つのです。今でも、昔ながらの高級ホテルの入り口の端に、台が置かれているのを見ることができます。そこにはマイクがあり、その音声が駐車場に繋がっています。例えば、私が係の人に運転手さんの名前を告げると、そのマイクに向かって
「サティーッシュ、サティーッシュ、ジャルディ、ジャルディ。」
と言います。すると、駐車場でそれを聞いたサティッシュさんは、数分後にホテル玄関に車を付けるのです。 我が家の運転手さんは、あのスマホのなかった頃を「ハード・ワークな時代」と言い、今もホテルの駐車場は使いたがらないように私は感じます。当時のあの駐車場の様子は、映画「ホワイト・タイガー」でも描かれいますし、原作もインド・ドライバーの現実をよく綴っています。
私が二十数年ぶりにインドに来たら、当時の運転手さんは三人亡くなっていました。おそらく50、60代で逝ってしまったのだと思います。みな、走り屋で、力持ちの明るくて優しいドライバーさんでした。その中には、渋滞中であれ、何が何でも出張者やお客さんの飛行時間に間に合わせる、スーパー飛ばし屋ドライバーさんもいました。
サティッシュさんは飛ばし屋ではないし、決して器用なドライバーさんではありません。しかし実直で真面目。そして、恰幅のよかった彼らと比べ、サティッシュさんは、スレンダーで健康的に見えます。その事を彼に言うと、彼は目的地で奥様方を待っている間、歩くようにしていたと、答えました。そして日々のお食事は、ワイフの作ったホームのフード。健康のためには、外食はしない事だと微笑みました。
私の運転の翌日は、仲間たちとさよならパーティ。その次の日からは、孫と一緒に生活、そしてそれが、「ベ~リ~ハッピー」だと、サティッシュさんは笑い、写真を見せてくれました。そこには、あの日、ブルブル震える声と手で訴えた彼が守りたかったもの、その未来図がありました。
サティッシュさん、
勤続30年、お疲れさまでした。
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